親父の遺言
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- カテゴリ- エトセトラ
ボケる前のそれ
遺言というにはささやかなものなれど、死んだ親父は息子宛のメッセージを残していた。2006年に書かれたもので、5年前に認知症が発症するまでの約10年は未踏の段階でのものだ。
バカ息子は当時の病名すらも忘れたけど、親父本人は手術にあたって相当な覚悟をしていたらしい。読んでしまった今となっては、「お母さん(お袋)のことを頼む」から始まるありきたりな内容なんだけど、その後再発もせずに平和な余生を送りながら、書き直さなかったことが不思議だった。切羽詰まらないと書けないものなのかもしれない。
お袋から渡されたのが今月の18日。フツー、すぐに渡さない? 死んですぐは無理でも火葬するまでには思い出しそうなもんだけど。お袋に余裕がなかったのかな。とはいえ、すぐに開封しなかった自分も相当なもので、お袋からとある事情で催促されなければ、まだ読んでいなかったと思う。
スクショの通りの事情で開封せずにいた。Facebookには書かなかったが、「泣いてしまう」事態も避けたかった。読んでもらえない親父は不憫だとは思ったが、最初の月命日さえ忘れる多忙な日々の中で、これ以上スケジュールを乱す要素を増やしたくなかった。
銀紙好きな親父
それでも開封したのは、額面2,000円のピン札が2枚同封されているらしく、それは孫二人へのプレゼントであると、数日してお袋に言われたためだ。2000年から流通していた札を2006年に仕込む理由が謎だが、当時の親父(70歳)は「思いついちゃった」のだろう。
大事なものは何でも銀紙(アルミホイル)に包むのが好きだった親父らしく、ピン札2枚も1枚ずつ包まれていた。厚みを知らなければチョコレートかよ? という佇まい。言われたとおり息子たちに渡すが、彼らも困惑。爺さんからの意味ありげなピン札は、おいそれと使えないしね。すぐに、「お父さん持っててよ」となった。
自分としても、ネコババしたとお袋に思われたくはないので(笑)、戻されるのは困る。結局、リビングの本棚に挟んだ。すぐに存在を忘れられ、いつか「ナニコレ?」な事態になるのだろう。
そんな訳で、仕方なく読んだ。かなり構えて、嫌々な感じで。なんなら、薄目を開けていたようにも思う。結果的には、途中で読むのをやめてしまうほどの違和感はなかった。なんとか最後まで読めたが、どうしてもメッセージを伝えたいという死を覚悟した人間と、心かき乱されたくないためスルーしたい人でなしとの温度差は感じた。
良い親父だったと思うし、今も昔も育ててくれたことに感謝しかないが、この仕打ち。自分は息子たちに何の期待もする権利はないと思ったし、本当に自分が嫌いになった。どう考えても欠陥人間である。今もまったく悲しくない。
かといって、親父の死後に悲しみにくれるお袋を理解できないこともない。特養に入れる決断をしたものの空きがなく、介護疲れからの「早く死んでほしい」という本音を忘れ去り、美しい思い出だけに浸れるのは、配偶者の特権だと思うから。血を分けた親子よりも、元は他人であった配偶者の方が、精神的ダメージが大きいのではないか。
自分を正当化したい訳ではないが、他人だからこそストーリーが要るのだ。そして、紡いだストーリーが後々まで関係を縛る。親子はただの分身。親のDNAは子に受け継がれ、血筋が途絶えるまでは生き続けると言える。だから親より先に死んだら親不孝と言われるのだ。
とにかく、ニュースで見るような悲しい事件が起きる前に親父が逝ってくれたことには、ただただ感謝だ。親父の年金だけでは足りない特養費用に苦しむこともなかったし、「自宅で最期まで寄り添った」美談をお袋にプレゼントしてくれた。
ゼロではなかった刺さるヤツ
序盤から微妙な気分を醸成してくる遺言ではあったが、最後の1枚はトーンが違った。遺族への思いから、人生訓に変わったのだ。「困難にぶつかっても、とにかく汗をかけ」みたいな。読み返す気はないので不正確な引用だが、このベタなメッセージが実は刺さった。
起業から3年、いまだ目ぼしい結果を出せていない自分を見透かされているように感じたからだろう。できることには片っ端から取り組んで、なんとか会社を維持している現状では、「不惑も知名も過ぎたのに」などと言っていられない。「いい歳こいて勉強とか失敗とかダセー」なんていうプライドはすでにないのだ。
死ぬまでクールに生きられない。汗だくでOK。それが親父からのメッセージだと思った。だけど、認知症の最期は嫌だ。プライドは捨てても人間としての尊厳は捨てたくない。自分ひとりで解決できる問題ではないが。